「ふつう展」日記

ひとつの展覧会の裏側には、展覧会を訪れただけでは見えない、さまざまなプロセスと試行錯誤があります。「ふつう展」日記は、「ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります 京の絵画と敦賀コレクション」展、略して「ふつう展」に関わるスタッフが、折々に皆さんにお伝えしたいことを発信するブログです。


庚申様の旅(上)

 

 

府中駅を降りて西側へ出ると、大國魂神社に続く立派なけやき並木があります。深く重厚な木々の光景が目に入った瞬間、「ああ、ここは府中なんだ」と、歴史の町の、何か特別な空気のようなものを感じる方も多いことでしょう。

 

▲庚申塔は、府中駅から1分くらいのところにあります。

 

そのけやき並木に、二つの庚申塔(こうしんとう)があります。覆屋に守られ、今も地元の方によって花や水が供えられています。そのうち右の一基には、青面金剛(しょうめんこんごう)という仏様と、三匹の猿が彫られています。

▲時折、手を合わせていく人がいます。

 

▲上には、邪鬼に乗る青面金剛。6本の腕があり、剣などを持っています。邪鬼の下には、3匹の猿が彫られています。

 

庚申信仰は、中国の道教の世界で生まれました。人の体内に住んでいる「三尸(さんし)」という虫が、その人の悪事を天帝に告げると、その人の寿命は短くなるというのです。その三尸虫(さんしちゅう)が体から抜け出して、天帝のところへ報告に行くのは、「庚申」の日の夜だとされました。そこで庚申の日に、人々が集まり、眠い目をこすって、一晩中寝ないで、三尸虫が体外に出ないようにするという対策が講じられたわけです。それが「庚申待(こうしんまち)」と呼ばれる行事です。

 

庚申待は、遅くとも平安時代の初めには、宮廷や貴族らの間で行われていました。その頃の人たちが三尸虫のことをどこまで信じていたかは謎ですが、長生きを願う行事として、宴や遊興とセットで行われていたようです。それがやがて庶民にも広がり、特に江戸時代から近代にかけて、日本各地の町や農村などで行われました。

 

庚申待の講中、つまりグループで、石塔を建てることもありました。それが庚申塔です。庚申の日は年に6回ありますが、それを3年続けて、合計18回を達成した記念に建てることもあったようです。もちろん、健康と長寿を祈願して建てられることもあったでしょう。府中のけやき並木の、青面金剛と猿が彫られたそれには、天保7年(1836)の年紀があります。

 

庚申待は道教から生まれたものなので、仏教や神道とは元来は無関係ですが、日本では、仏様や神様など色々な信仰と結びつきました。察するに、ただ徹夜して三尸虫が外に出るのを防ぐだけでなく、神仏を拝みながら催せば、効果が一層強力になると考えたのでしょう。そうした庚申待の時のご本尊は、「庚申様」と呼ばれています。庚申様になった神仏は色々ですが、その一つが、病魔退散の力を持つ青面金剛でした。

 

▲左から、目をふさいだ「見ざる」、耳をふさいだ「聞かざる」、そして口をふさいだ「言わざる」。

 

また、「三猿」、つまり「見ざる、聞かざる、言わざる」の三匹の猿が、庚申様になることもありました。三猿が選ばれた理由としては、「庚申」は申の日だからという説や、三尸虫とは逆に、その人の悪事を「見ざる、聞かざる、言わざる」ものだから、という説などがあります。けやき並木の一基には、青面金剛と三猿、二つの庚申様が彫られているわけです。

 

▲摩滅した「言わざる」が愛らしさを醸し出しています。

 

さて、府中駅に戻って、美術館を目指して少し歩くと、「庚申様のまち」、府中駅東口商店街があります。この通りの入口に、嘉永5年(1852)に建てられた「新宿庚申塔」があるのです。宿場町時代、府中には三つの町があり、その一つ「新宿(しんしゅく)」の人たちが建てた庚申塔で、石碑の正面には「庚申塔」、側面には「新宿講中」と彫られています。私もしばしばここを通りますが、現代の町の中に、こんな風に昔の人たちの暮らしぶりを伝えるものがあるのは、いいものです。

 

▲ 左下が「新宿庚申塔」。ゲートの上で、2匹の猿が迎えてくれます。

 

 

さて、この「庚申様のまち」から15分ほど歩けば、府中市美術館です。そして、開催中の「動物の絵 日本とヨーロッパ」展でも、とっておきの「庚申様」をご覧いただけます。(続く)

 

(府中市美術館学芸員、金子)

 

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