ー家光には「天然」で良いのだ、という確信があったとのことですが、その確信はどこからきたのでしょうか?
金子 もちろん、将軍という地位にあったことはその背景にあるでしょう。将軍たるもの、狩野派のようなお決まりの描き方ではなく、自分だけの表現でもよいと考えたとしても不思議ではありません。
▲徳川家光「竹に雀図」(部分)。昨年、長野県で新発見された作品。ヘルメットみたいな髪型とか、胸からピョロっと出た謎の描線とか、確かに、家光だけの表現です。前期(10/24まで)展示
ー確かに。狩野派風に描いたら、狩野派を越えることはできませんものね。
金子 そうなんです。逆に、唯一無二の表現をすれば、その絵そのものが、全てを超えた存在としての将軍という存在を物語っていることになるのです。そんな想像も浮かびますが、家光がこんな風に独自の絵を描いた背景としては、もうひとつ、禅の思想があると私は考えています。
ー禅ですか?
金子 「木兎図」のように、家光の絵には沢庵宗彭(たくあん・そうほう)が賛を付けたものが何点かあります。漬物のたくあんで知られる沢庵和尚は、大徳寺の住持を務めた高名な禅僧ですが、家光はこの沢庵に熱心に帰依していたのです。
▲徳川家光「木兎図」。賛は沢庵宗彭で、家光の描いた木兎の「奇怪」さを詠う内容。後期(10/26〜11/28まで)展示
ー禅と絵画といえば、仙厓さんが思い浮かびますが……
金子 仙厓の絵も、他とは全く違う、突拍子もない描き方ばかりです。禅という別世界への案内役となるべき禅画には、常識を越えることを「描き方」によって示すことが求められるのです。
ー「描き方」によってですか?
金子 もちろん、描き方だけでなく、主題も重要です。例えば、家光は木兎や梟を好んで描きましたが、両者ともに古くから姿が奇妙で、奇っ怪とされた鳥でした。嫌われ者の鳥をあえて描く「へそまがり」の感性は、常識を疑う禅の精神に通じているのです。家光は、そんな非常識な題材を、上手い下手という価値基準を飛び越えた、自由な描き方で表したのです。立派な禅画と言ってもいいのではないでしょうか?
▲徳川家光「古木に木兎図」(部分)。同じ木兎が主題でも、全く同じ絵を描かないところが家光らしい。前期(10/24まで)展示
▲徳川家光「木兎図」(部分)。「奇っ怪な鳥とされた木兎を、あえてこんなに可愛らしく描く、というのもまた、常識では考えられない描き方です」と金子学芸員。なるほど、そう考えると、この可愛さも奥深いですね
家光の絵についてのお話、まだまだ続きます。次回は、ありがたき葵御紋の表具についても伺いたいと思います。お楽しみに!
(図録編集チーム、久保)